子猫とネズミ




 

 彼は、ネズミと呼ばれていた

 いつもポケットに両手を突っ込んで、背中を丸めて歩いていた。十秒に一度は後ろを振り向いて、誰かが追いかけてこないか確認する。普段から、下唇を突き出した卑屈な表情が顔に浮かんでいた。笑顔を見せることはめったにない。友達はいない。


 昼休み、教室には三人の少年がいた。

「なあ、最近なんか面白いことねえの?」

「ないなあ」

「お前こそなんかねえの?」

「ねえよ。あったらこんなとこでお前らと喋ってねえっつーの」

「暇だなあ」

「……なあ、これ誰の机?」

「あ?」

「げっ、ネズミのだよ、おい」

 ネズミの椅子に座っていた少年は立ち上がると、机を蹴り倒した。大きな音がして、机に入っていた教科書が床に散らばる。それを見た二人の少年は笑った。

 机を蹴り倒した少年は埃を払うように自分の尻をはたくと、顔をしかめた。

「あーあ、最悪」

「うわ。牛乳がある」

給食についてくるパックの牛乳が教科書と一緒に床に転がっていた。

「なんでコイツこんなもん持ってんの?」

 少年の一人がそれを拾い上げて、ストローを挿した。

「まさかお前、飲む気?」

「んな訳ねーだろ」

少年は散らばった教科書の上で牛乳のパックを逆さまにすると、握り締めた。白い液体がびちゃびちゃと教科書にかかる。

「これって臭えんだよなぁ」

片手を鼻にあてて、わざとらしく大声で言う。三人の笑い声が教室に響いた。

 その時、教室の戸が開いた。

 ネズミだった。いつものように、不自然な程の猫背で、下唇を突き出している。上目遣いに三人を見た。そして三人が何をしているかを見て取ると、唸り声を発した。

「なに、してるんだよう……」

「おう、ネズミ!」

少年は牛乳パックを教科書の上に放り出して、笑顔で挨拶してみせた。他の二人はニヤニヤと笑っている。

「あー……」

ネズミはよろめくように二、三歩だけ少年たちのほうへ歩み寄ると、牛乳をかけられた教科書が床に散らばっているのを見つめた。

「おいネズミ。早く拭かねえと、匂いがとれなくなるぞ」

少年の一人がネズミに言うと、

「いや、そんな必要はねえよ」

もう一人の少年が言った。

「だって、ネズミはもともと臭えもんな!」

少年たちが一斉に笑う。その中の一人が、

「な、ネズミ? 臭えもんな?」

ネズミの顔を覗きこんで、同意を求めてきた。

 ネズミは視線をそらして下を向いた。そして下唇を突き出して、小さく、

「僕はネズミじゃない」

と言った。しかしその声は小さすぎて、三人の笑い声にかき消されてしまった。

 ネズミはもう何も言わず、嘲笑の中でずっとうなだれていた。

「じゃあな、ネズミ!」

「ちゃんと拭いとけよ!」

「がんばれよ!」

 三人はひとしきり騒ぐと、気が済んだのか、一言ずつネズミに声をかけて教室から出ていってしまった。最後の一人は「がんばれよ」と言いながら、牛乳で汚れた教科書を蹴った。白いしぶきがネズミの足にかかった。ネズミはうなだれたまま、唇を突き出して震えていた。

「おい、外でサッカーやってるぞ」

「行こう」

 少年たちの声が遠くなり、そして完全に聞こえなくなるまで、ネズミはそこを動かなかった。

 やっと教室が静かになると、ネズミは雑巾を持ってきて一人で床を拭いた。教科書は、完全に乾くまでは拭いても使えそうになかった。それでも一応教科書を雑巾で拭いて、机の中にしまった。机の中からはもういやな匂いがしてきていた。

 ネズミはその席に座り、震える声で、もう一度「僕はネズミじゃない」と呟いた。


 学校に近い、しかし通学路からは少し外れた道の隅に、発泡スチロールの箱がおいてあった。中には汚れた毛布と一緒に、一匹の小さな三毛猫が入っていた。

 子猫は毛皮の上からでもわかるほど痩せて、右の目が目ヤニでほとんどふさがっていた。そして子猫はそのそばに近寄らないと聞こえないような小さな声で、長い間鳴き続けていた。

 夕方ごろ、通学路からは外れているはずのその場所に、ネズミが姿を現した。

 ネズミは箱のそばにしゃがんで、子猫の頭にそっと触れた。子猫は鳴き止むようなそぶりを一瞬だけみせたが、すぐに、もっと激しく鳴き始めた。

「ああ。ごめんな。今日は何もないんだ」

ネズミは、なだめるような口調でぼそりと言った。乱れた毛並みを指先でそっと整えてやる。

 子猫はいつもの、給食の残りの牛乳をねだり、何度も鳴き続けた。

「ごめんな」

ネズミは自分にも言い聞かせるように、口の中で言った。

 子猫の喉を優しく撫でてやる。それでも子猫は一層激しく鳴き続けた。

「おい、ネズミがこんなとこで何かやってるぞ!」

 突然、大きな声がして、子猫が鳴き止む。ネズミはびくっと震えてその場に硬直した。

「本当だ。何やってんだよ?」

「何か箱があるぞ」

 ネズミは急いで子猫を抱き上げると、すぐ脇の溝に入れた。足が震えていた。

「猫だ」

「来いよ、猫がいるぞ」

 少年たちが走りだした。子猫は溝の中でネズミの方を見上げている。

「捕まえようぜ」

「おいネズミ! それ、ちゃんと捕まえとけよ」

 ネズミは子猫に向かって石を投げた。信頼していたネズミに攻撃されたことに驚いて、子猫は振り返りもせずに側溝の奥へと逃げていった。

「あ」

 走ってきた少年の一人が言う。

「おいネズミ、何やってんだよ」

ネズミは後ろから肩を掴まれた。

 少年たちが次々と走ってくる。

「なんで石投げた?」

 ネズミは子猫の消えていった暗がりを見つめながら震えていた。

「こっち向けよ」

少年の声がいつもより低い。怒気をはらんでいる。

 振り向くと同時に、ネズミは殴られて倒れた。その顔を、別の少年が靴で踏みつけた。硬いアスファルトが、頬に無理やり押し付けられる。ネズミはうめき声を出した。

 さらに別の少年が、うずくまったネズミの腹を蹴った。ネズミは歯をくいしばって堪えた。

 頭の上の足がどけられ、今度は顔を蹴られた。鼻面を打たれて、涙がにじみ出てくる。

 ネズミは拳を握り締めた。小さくうめくように、

「僕はネズミじゃない……」

思い切り顔面を蹴られた。だがネズミは立ち上がって、はっきりと、全員に聞こえるように言った。

「僕はネズミじゃない!」

 少年たちは黙った。すると、その中の一人、リーダー格の少年が、

「どうする?」

と少年たちに尋ねた。

「今こいつ、ネズミのくせに俺たちに逆らったぞ。……どうする?」

 いきなり、ネズミは後ろから羽交い締めにされた。

「ゴウモンだな」

少年たちは笑っていた。

「ああ。ゴウモンだな」

「しっかり教えとかなきゃな」

「そうだな」

口々に言って、笑みを浮かべている。

 ネズミはなんとか腕を振り払って自由になろうとしたが、ほどくことはできなかった。

 少年の一人がポケットからライターを取り出す。

「脱がせ」

ネズミは身をよじって逃げようとする。そこへ両側からさらに二人で押さえつけ、シャツの裾をまくって腹部を露出させた。

 少年はライターに火をつけ、つまみを動かして炎を大きくした。

「なに、するんだよ……? やめてくれよう……」

彼らのしようとしていることを悟って、ネズミは必死でもがいた。しかし三人がかりで押さえつけられていては逃げ出すことはできない。

「口押さえとけよ」

横から手が伸びてきて、丸めた紙屑をネズミの口に詰めた。

 ライターを持った少年が楽しそうに言う。

「動くなよ〜。動くと服が燃えるからな」

ネズミのへその上あたりに炎が近づいてくる。熱気だけで皮膚が赤くなった。

 炎が皮膚を焼いた。

独特の強い匂いがして、皮膚は溶けるようにただれて白くなった。その向こうに桃色の肉が見える。

 ネズミは叫ぶこともできず、身をよじって油汗を流していた。

 少年たちはもう何も言わず、ただ笑っている。

 再び、炎が皮膚に近づく。

「そうだなあ」

 顔を真っ赤にして涙を流すネズミを見て、少年は言った。

「ネズミの真似しながら、『私はネズミです』って言ってみろよ」

ライターの炎がネズミの腹を焼いた。

 ネズミは額に血管を浮かせて悶絶した。

「ほら、言ってみろって」

少年は実に楽しそうに言った。そしてまた炎をネズミに押し付ける。

 ネズミはもう暴れもせずに、うなだれて痙攣するだけだ。

 少年はその反応を見て、つまらなさそうにライターをしまった。そしてネズミの頬を軽く殴った。

「吐け」

もう一度殴ると、ネズミの頬から唾液で濡れた紙屑が落ちた。

 ネズミを押さえつけていた三人が腕を放す。ネズミは地面に崩れ落ちた。

 少年はネズミの頭を蹴って上を向かせると、その顔を靴底で踏みつけた。

 ネズミの口が小さく動いている。

「聞こえねえなぁ」

少年は靴底の泥をこすりつけるように、ネズミの顔を踏みにじった。

 ネズミは目を固く閉じて、喉から声を絞りだした。

「私は、ネズミです……」

「ネズミの真似はどうした?」

少年はほとんどネズミの顔の上に乗るようにして、体重をかけた。アスファルトに押し付けられた頭部が悲鳴をあげる。

「……チュー、チュー」

ネズミは最後の力を振り絞って絶叫した。

「チューチュー、私はネズミです! チューチュー、チュー!」


 次の日の朝、ネズミは登校する時に、子猫のいた場所をのぞいてみた。そこには空の箱と汚れた毛布があるだけで、子猫の姿はなかった。ネズミはそれも仕方ないと思った。子猫には、ネズミが石を投げた意図などわかるはずもない。裏切られたと思っても当然なのだ、と。ネズミはただ、あの子猫が良い人間に拾われることを願うばかりだった。

 しかし、下校時にネズミがもう一度その場所をのぞいてみると、子猫は今までとまったく同じように箱の中におさまっていた。

 ネズミは箱のそばに駆け寄っていった。子猫はネズミの姿を見ると、箱の縁に前足をかけ、身を乗り出して鳴いた。ネズミは子猫を抱き上げて、頭を撫でてやった。

 子猫は驚いた様子もなく、ネズミの腕に体をすり寄せてきた。

「ごめんな……」

ネズミは謝って、子猫の体をそっと抱いた。子猫はごろごろと喉を鳴らしている。ネズミはその喉を指でくすぐってみた。子猫の温もりと喉の震えが、ネズミの指に伝わってくる。

 ネズミが石を投げたのに、子猫は戻ってきた。そして今、ネズミに抱かれている。

 しばらくすると、ネズミは子猫を箱の中に戻した。子猫の体に毛布をかける。子猫はおとなしくじっとしていた。

 ネズミは辺りを見回して、最も目に付きにくそうな物蔭に箱を隠した。

「明日からは、僕が毎日エサを持ってくるからな。待ってろよ」

そう言って子猫の頭を撫でた。子猫は嬉しそうに鳴いた。



 ネズミは曲がり角で塀の蔭に隠れていた。この角の奥が子猫の捨てられた場所だ。そこから少年たちの声がしている。

「やっぱり、これ、昨日の猫だよな?」

「そりゃそうだろ」

「でも、箱が動いてるぞ」

「バカ、誰かが動かしたんだろ。そんなことはどうでもいいんだよ。とにかく、今日はこの猫で遊ぼうぜ」

少年たちの声に混じって、子猫の鳴く声がかすかに聞こえてくる。

「お前、カッター持ってたよな?」

「ああ」

「ヒゲ切ってみようぜ」

「よし」

「おっ、抵抗する気か? こいつ」

「逃げないように押さえとけよ」

 ネズミの足が震え出した。手に持っていた給食の残りの牛乳とパンを握り締める。

「僕はネズミじゃない……」

深呼吸して、足の震えを止めようとする。だが止まらない。

「よーし、今度は耳切ろうぜ」

「おお。暴れる暴れる」

「紐かなんかで縛るか」

「俺、セロテープ持ってる」

「よし、これで逃げられないな」

「それ」

「うわっ、すげえ血」

 ネズミはそこにしゃがみ込んだ。足の震えが止まらない。

「……僕は、ネズミじゃない……」

歯をくいしばる。

「あー、手が汚れちまった」

「汚えなあ」

「……なあ、これ、皮剥いでみねえ?」

「面白そうだな」

「毛皮、売れるかもな」

「うまく剥げよ」

 ネズミの手からパンと牛乳が落ちた。唇を噛んで決心を固める。

「……僕はネズミじゃない」

火傷が痛み出した。

「難しいなあ」

「すげえ匂い」

「あー、ヘタクソ」

「じゃあお前がやってみろよ」

「痛ぇ! 噛みやがった」

「バーカ」

 ネズミは顔を手で覆った。足だけではなく、体全体が震えている。腹の火傷もうずいている。

「僕はネズミじゃない……!」

ネズミはゆっくり立ち上がった。震える足を無理やり押さえつける。

「もういいよ。汚えし、早く殺しちまおうぜ」

「なんだそのブロック?」

「そこに落ちてたんだよ。これ、上から落とせば一発で死ぬだろ」

「なんだよ。もう少し遊ばせろよ」

「うるせえ。どいてろよ。せーの……」

 子猫の声がしなくなった。

 ネズミは塀の蔭に隠れて、声を出さずに叫び声をあげた。額を塀に叩きつける。ネズミはそこで鳴いた。飛び出せずに隠れたまま。

「チューチュー、私はネズミです。チュー」

 


                                                終わり

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©有賀冬馬  2005/8

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